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今から100年前に終了した「英米訪問実業団」について、最近リサーチしています。日本の財界代表者によるイギリス訪問の歴史に、今日に通じるものがあるかどうかを見たいからです。
この訪問は、1902年に結ばれた日英同盟が破棄されつつある時期に行われました。1921ワシントン会議で日本、イギリス、米国、フランスの四カ国条約が調印され、日英同盟が解消することになったためです。ワシントン会議は1922年に2月に終了しましたが、四カ国条約が発効した1923年8月に日英同盟は正式に失効しました。
日英同盟は、もともと極東におけるロシアの拡張主義に対抗するために締結され、後にドイツからの脅威にも対抗しましたが、1921年までには、イギリスにとってロシアは脅威ではなくなり、ドイツは第一次世界大戦で敗北していました。代わりにイギリスが望んだのは、米国との関係強化でした。米国は、日本に対してより敵対的な姿勢を示していて、太平洋地域や中国で利害対立の可能性を感じていました。
團琢磨が率いた英米訪問実業団は、ワシントン会議のタイミングを見計う格好で、1921年10月から1922年2月にかけて、米国、イギリス、フランスを訪れました。イギリスでは、この使節団の呼び名にいくらかの揺れがありました。産業使節や商業使節と称されたこともありましたが、スピーチの記録などから察するに、イギリスの受け入れ側の多くは、外交目的も兼ねた訪問であることを認識していたようです。
日本は当時、輸出が輸入を上回り、また第一次世界大戦で債権国にもなっていて、国際経済に深く関与していました。渋沢栄一は、日本が国際的影響力を拡大すべき時であり、それには経済と社会の基盤を先進国のレベルに引き上げる必要があると考えていました。
このため、訪問団に参加した財界のメンバーは、造船所や工場を訪れ、関税や商標について議論する一方で、イギリスの労使関係、協同組合運動、イギリス産業連盟にも大きな関心を寄せていました。イギリスの輸送交通インフラを理解することにも熱心でした。イギリスの次にフランスを訪れた使節団は、新たに創設された国際商工会議所を視察しました。
イギリスの実業家が開いた夕食会や昼食会では、貿易の継続が幾度となく話題に上がっていました。とはいえ、イギリスが日本を植民地における競争相手と見なし始めていることは明らかでした。特に綿花製品をめぐる競合があり得ると予期していました。これに対し、團琢磨は、日本とイギリスの両方にとって競争相手は中国だと返しました。
日本の使節団は、日英同盟の解消によって貿易障壁が増えること、また日本の国際的な地位が弱まることを懸念していました。日英同盟は、日本の信用の証左となっていたからです。
この懸念は的中したと言えるでしょう。1929年に世界恐慌が起こると、米国は保護主義を強めました。1932年にはイギリスが帝国特恵関税を導入して、第一に国内の生産者、第二に帝国内の生産者、最後に外国の生産者という政策を取るようになりました。この同じ年に、團琢磨は暗殺されています。
(この記事は帝国ニュースの2022年3月9日号に掲載されました)
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