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マーガレット・サッチャーの死がイギリス人の間でなぜあんなにも強烈な憤怒と称賛の感情を巻き起こしたかは、日本の人には理解しにくいかもしれません。首相の地位を退いてからもう23年になるというのにです。
私の世代(1960年代生まれ)は彼女の政権下で育ったため、「サッチャーズ・チルドレン」と呼ばれることがあります。1971年、当時教育相だったサッチャー氏が、7~11歳の児童に無償で支給されていた学校の牛乳を廃止したことを、私の世代はよく覚えています。私も含めて多くの子供が、学校の牛乳は大嫌いでした。毎日午前中の休み時間に支給されていたのですが、飲む頃までには生温かくなっていて、匂いがしたからです。
私は7歳までには日本に引っ越していましたが、牛乳から逃れられたわけではありませんでした。日本の学校でも牛乳が出たからです。しかも、日本の牛乳は低温殺菌牛乳ではなくホモ牛乳だったため、私にはなおさら嫌な味でした。
当時、日本のような異国へ引っ越すなんてとんでもないと言う人はたくさんいました。でも、1972年のイギリスも、決して住み心地の良い場所とは思えませんでした。炭鉱労働者や港湾労働者のストが相次ぎ、非常事態宣言も発せられていたからです。賃金と物価の凍結が発表され、失業者数は1930年代以来初めて100万人を上回っていました。
日本にも、経済問題はありました。オイルショック時のトイレットペーパーの買い付け騒動は、今も記憶に鮮明です。でも、この危機が日本の自動車製造の技術革新を促したことは、今では周知の事実です。私たちが日本へ発つ直前に、ホンダがイギリスへの輸出を開始していました。そして1977年にイギリスに帰ってきた我が家が買った車は、「ダットサン・サニー120Y」でした。
私の祖父母は、論外だと思ったようです。祖父母は戦争のことを強烈に覚えていて、私たちが日本に引っ越すことにも反対でした。なぜイギリス製の車を買わないかが理解できなかったのです。彼らが乗っていた「トライアンフ・ドロマイト」のメーカー、ブリティッシュ・レイランドは、相次ぐストで打撃を受けていました。
サッチャー氏は大変な愛国主義者でしたが、一方で、勤勉を重んじる自分の価値観を共有する外国投資家に対しては、大きく門戸を開放しました。私たちの世代は、炭鉱の町を破壊し、教育予算を削減し、戦争を挑発したサッチャー氏の批判に明け暮れましたが、その間にも彼女の政権は、日産の初の工場開設を奨励しました。この工場が造られたサンダーランドは、炭鉱と造船所が閉鎖された後、絶望的なまでに新規雇用を必要としていました。
それから30年、今では車を大量生産するイギリス資本企業はなくなりましたが、それでもイギリスでは昨年150万台近い車が生産されて1970年の200万台の記録に近付きつつあり、その86%は輸出されています。ただし、自動車業界の直接雇用はわずか19万5,000件しかなく、1970年の85万件を大きく下回っています。イングランド北部は今も失業率が高く、不況地帯です。これこそが、サッチャー氏の遺産に対する感情の深さを説明しています。彼女の政策は、ビジネスの観点からは正しい政策でしたが、人的コストの問題を未解決のまま置き去りにしたのです。
パニラ・ラドリン著 Teikoku Databank News 2013年5月14日号より
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