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以前からエストニアを一度訪れてみたいと思っていました。小さな国で、人口もわずか130万人ですが、バルト海地域に所縁のある家族の歴史を調べた際に、 エストニアを知ることでヨーロッパの発展について理解を深めることができ、ヨーロッパのアイデンティティ、すなわち共通の文化のようなものがあるかどうか を理解するのにも役立つことが分かったからです。
そこで、エストニアの首都タリンでの会議に参加する機会に最近恵まれたのを受けて、観光の時間を十分に取ることにしました。日本ではヨーロッパの文化を 「石の文化」と呼ぶことがしばしばありますが、エストニアは間違いなくその範疇に収まるでしょう。美しい教会や中世の家並みなど観光の見所にある多くの建 物が、地元で採取される石灰岩で造られています。
歴史から見るヨーロッパのアイデンティティ
でも、エストニアの他の側面は、私が考える一般的なヨーロッパの概念には当てはまりませんでした。例えば、エストニアにキリスト教が伝播したのは13世紀 ときわめて遅く、西欧諸国への伝播から1,000年後のことです。キリスト教徒だったデンマーク王とスウェーデン王、さらにリヴォニア騎士団とドイツ騎士 団の率いる北方十字軍によって制覇されるまでは、異教徒の国でした(このうちドイツ騎士団が、私の母方のルーツです)。今日に至るまで、エストニアはヨー ロッパで最も宗教色の薄い国のひとつであり続けています。
キリスト教の伝播が遅れた一因として、エストニアがローマ帝国によって一度も征服されなかったことが挙げられます。この点が、西欧や南欧のほとんどの国とは異なっています。
ただし、エストニアは過去700年にわたって他の国々に征服されてきました。スウェーデン、それからロシア。1920~1930年代には短い独立を謳歌しましたが、その後ドイツに占領され、さらに最も最近ではソ連の一部として共産党の支配下に置かれていました。
共産党政権は、基本的に農業と商業で成り立っていたエストニアの経済を工業化しようとして、工場や鉱山を開設し、そこにロシアからの労働者を多数送り込み ました。当初エストニアはロシア人の移住先として好ましい土地と見なされましたが、この工業化の試みは成功せず、特にそれまでの西側諸国との通商路が絶た れたことで、エストニア経済は打撃を受けました。
タリンの古い商家が建ち並ぶエリアを歩きながら、私は確かにヨーロッパの息吹を感じました。タリンは、ハンザ同盟の加盟都市として栄えた街です。ハンザ同 盟とは、13世紀から17世紀にかけてイギリスからロシアまでの多数の北部ヨーロッパの国に広がった商人同盟、都市同盟です。
最近ではイギリスやオランダで反ヨーロッパ運動が盛んになっていますが、それでもほとんどの人は、何らかの貿易同盟に参加していたいと思うものです。通商 や海運で栄えたこの地域の人々は、ヨーロッパ中を旅して各地に移住しました。他者との交易を好んで追求する姿勢は、今も綿々と受け継がれています。これ は、ヨーロッパの誰もが失いたくないと思っているアイデンティティと言えるでしょう。
パニラ・ラドリン著 Teikoku Databank News 2013年11月7日号より
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